だからという訳でもないが、理玖は最初から晴翔を意識していた、と思う。 毎日午後二時に部屋に雑務をこなしにやってくる晴翔を、嫌だとは思わなかった。 部屋に来るたびに何となく姿を見詰めてしまうのは、容姿が美しいからだ。美しかったり可愛いものは見ていて飽きない。 美人は三日で飽きるなどというが、晴翔の姿はどれだけ眺めても足りないと思った。 「先生、ゴミ箱のゴミ、捨てますよ」 声を掛けられて、足元に目をやる。 「あぁ、ありがと」 ゴミ箱を持ち上げて晴翔に手渡す。 晴翔は不用意に机を覗き込んだりPC画面を確認したり、探るような仕草はしてこない。一定の距離感を保ってくれる。それが心地良かった。 (折笠先生にも見習ってほしいな。二十代前半の若者が出来る行動を四十になる大人が出来ないのは、何故なんだ) パーソナルスペースという概念自体が崩壊してる折笠に愚痴が湧く。 晴翔が動きを止めて、珍しく理玖の机を見詰めていた。 「この人形、可愛いですね。触ってもいいですか?」 机の上のあみぐるみを指さす。 「どう
一年前の五月、ゴールデンウィーク明け。 大学前の公園の桜がすっかり葉桜になり、新緑が色濃く萌える頃。 理玖は慶愛大学にやってきた。 慶愛大学医学部医学科自然健康科学群内分泌内科WO専攻講師。 国立理化学研究所の研究員だった向井理玖が新たに得た肩書だ。 (学術機関での研究ってどうなんだろう。大学はどこの国でも資金難で研究自体が難しくなってきているけど) 最近、注目を集めるWO研究と言えど、不景気な社会で最初に削られる経費には違いない。理研でそれなりに自由にやりたい研究をさせてもらえていただけに、不安なところだ。 (それ以上に、講師ってどれくらい学生と関わるのかな。日本の大学って、よくわからない) 高校を飛級してロンドンのカレッジで医師免許を取得し、院で|博士《ドクター》まで習得した理玖には、日本の学校のシステムが実感としてわからない。 (あまり深い関わりは、したくない。距離が近付けば、バレる率も上がる) 学生であろうと職員であろうと、一定の距離感を保っていたい。onlyだとバレる
理玖の研究室を飛び出した晴翔は、近くにあった資料倉庫に逃げ込んだ。 鍵をかけて部屋の奥に向かう。「はっ、はぁ……、はぁ」 頭がくらくらして足元もおぼつかない。 ピアスを耳に押し付けながら、飛びそうな意識を、なんとか保った。 一番奥の窓際の壁に、へたり込んで背中を預けた。 さっきの理玖を思い出すだけで、股間が反応してしまう。「勃ちすぎて、痛ぇ……」 それでなくても既にフェロモンでぎちぎちに勃起している。 更に反応しないように抑え込んだ。「可愛い、ヤバい、あんなの狡い。普段は塩対応なのに甘えると可愛いとか。声も仕草も顔も全部可愛いから!」 突然、下の名前で呼んだかと思ったら、自分から晴翔に身を寄せて、顔を擦り付けて、体をくっ付けて。まるで甘えるような仕草を甘えた顔でされたら、耐えられない。(スリスリってしてピタってくっつく仕草、めっちゃ可愛かった。リスみたいだった。俺を見上げた顔だって) 蕩けた顔がキスを催促しているようで、吸い付いてしまいそうだった。 頭を何度も振って、大きく息を吸い込む。何とか呼吸を整えた。 自分の胸に手を当てる。(手も体も、熱い。心臓、まだ早い。意識、保てて、良かった) 抱きしめた腕の中で晴翔を見上げた理玖の顔が頭から離れない。 何より、花の蜜のように甘く薫るフェロモンが、普段の比ではなかった。(やっぱり理玖さんはonlyなんだ。触れるようになった途端にビックリするくらいフェロモンが増えた) この一年、理玖に直に触れるのは、極力避けてきた。そのせいか、理玖からフェロモンを感じなかった。恐らく、阻害薬の効果の範疇で対応できていたんだろう。理玖自身も抑制剤を飲んでいたはずだから余計だ。(一年前の、初めて会った日に御姫様抱っこした時は、フェロモンなんか感じなかった。あんなにがっつり抱きあげたのに) だから、理玖がonlyであると確信が持てなかった。薬の効果で感じないだけなのか、そもそもフェロモンを放出していないのかが、判断できなかった。 しかし二回目の今は、これだけ体が反応している。理玖がonlyなのは確定だ。(しかもフェロモン量が多くて特殊な、例の希少種の可能性が高い。噂は本当だったんだ。あんなの、薬じゃどうにもできない) 耳のピアスに触れる。 即効性の抑制剤を仕込んだピアスはボタン式の皮下注射で
幸せなランチを終えて、フワフワした気持ちのまま理玖は自分の研究室に戻った。 晴翔とは大学受付窓口で別れた。 事務員である晴翔の本来の仕事は受付業務だ。 持ち回りで講師や教授たちの雑用をしてくれている。本来の業務ではないし、事務員からしたら面倒な仕事だろうと思う。 理玖に関しては、昨年赴任以来、ずっと晴翔が面倒を見てくれているから助かっている。(あの言葉、どういう意味だったんだろう。深い意味は、ないんだろうけど) 考えようとすると、胸が痛む。 もし、都合よく解釈して、間違っていたらと思うと、怖い。(百歩譲って、晴翔君が僕に好意を持ってくれていたとしても、僕がonlyだと知ったら、きっと遠くに行ってしまうんだろうな) onlyは、その希少性や有能さから国に重宝されているが、その実、社会性でいえば扱いは弱者だ。特定のotherでなければ妊娠できないonlyは、結婚できない場合も多い。生涯独身で過ごすonlyは少なくない。 onlyがレイプされた報道を見ても「気の毒だが仕方がない」という感覚が暗黙の裡に社会通念化している。理由はonlyが性玩具として都合よく扱われる事実があるからだ。 発情したonlyはotherの快楽を煽る。故に、頗る気持ちの良いセックスができる。 精子を搾り取ろうとする本能が強いから、相手に快楽を与えようと体が変化する。onlyは床上手というのは、悲しい事実だ。フェロモンがなくても、行為だけでも充分快楽を得られるので、onlyをセフレにしたがるnormalもいるほどだ。 onlyを集めて無理に働かせる風俗店が摘発されるなど、珍しくもないニュースだ。 世の中を普通に生きるnormalなら、事件性を秘めた存在であるonlyには近付きたがらないだろう。otherだったとしても、面倒事を嫌うならnormalを選ぶか、国が運営するWO結婚斡旋所を利用するのが安全だ。(生涯を共に生きるための相性ピッタリの相手を見つけるためにフェロモンを出して、子をもうけるために相手の快楽を煽るのに。今の所、総てが悪い方にしか役立っていないのがonlyの生態なんだよな) だからこそ幸せになれない性なのかもしれない。 生涯を共に生きたいと思えるような運命の相手なんて、それこそ物語でもなければ、そう見付かるものではないだろう。(現実は物語じゃない。
大学とは道を挟んだ向かいの敷地に、小さな公園がある。 公園は小さいのに、大きな桜の木が一本、立っている。 四月も中旬になり、ほとんど葉桜になってしまった木の下にキッチンカーが店を出していた。 車の前に置かれた看板には、おにぎりのメニューが並んでいる。「先生、おにぎり好きでしょ? いつか誘おうって思ってたんですよね」 感動した心持でメニューを眺める理玖を晴翔が振り返った。 理玖の顔を見て、晴翔が吹き出した。「誘って良かった。めっちゃ嬉しそうな顔してる」 思わず自分の顔を手で触ってしまった。 自分が今、どんな顔をしているのか、わからない。 恥ずかしくて、ちょっとだけ耳が熱い。 注文してから握るので少し時間がかかるらしい。 一緒に注文したホットドリンクを飲みながら待つことにした。 桜の木の下のベンチに座って、ホット烏龍茶の:蓋(リッド)を開ける。 猫舌な理玖は、リッドの小さな飲み口から飲むのが苦手だ。 懸命にフーフーする理玖を晴翔が楽しそうに眺めていた。「あんまり見られると、恥ずかしいよ」 ばつが悪い気持ちで、じっとりと晴翔に目線を向ける。「だって先生、可愛いから。見ていると飽きないというか。ずっと見ていたいというか」 照れた顔で晴翔をちらりと眺める。 人付き合いが苦手な理玖だが、晴翔を始めとする大学の事務員とはきっかけがあって交流ができた。そのせいか、事務員たちには時々、そういった形容をされる。「僕を可愛いなんて言うのは、事務の皆さんだけだよ。可愛げがない、なら色んな場所で何度も言われているけど」 愛想もなくお世辞も言わない有能な学者は、年上の学者からは疎まれる。 せめて持ち上げる言葉の一つも言えればいいのかもしれないが、全身がむず痒くなる。「見る目がない人が多くて良かったです。向井先生の可愛さは、俺だけが知っていればいいので。事務の皆にバレっちゃったのも、ちょっと悔しいんですよ」 ニコニコする晴翔を、理玖は両眼をひん剥いて見詰めた。(最近の晴翔君は、時々、変なコトを言う。何となく、僕に好意的な表現を……) そこまで考えて、理玖は首をぶんぶん振った。(違う、きっと違う。そんなわけない。僕が自分に都合よく解釈しているだけだ。深い意味はない。きっとない。小動物レベルの話だ。身長が低いからとか、そんな感じだ) 事務
無事に新年度の初回講義を終えてから、一週間が経過した。 理玖の一年生の講義は基本が月曜日の午後、追加で金曜日の午前に枠が設けられている。 春は週二回で講義が組まれているが、夏頃になれば週に一回でペースが定まる。(去年は夏前に、すっかり学生が減ってたけど。今年はどうかな) 手応えとしては、去年より熱心な学生が多い印象だ。ちょっと嬉しくなった。 午前中の講義でも、質問が多くて楽しかった。(次回以降は質問の時間を多く設けよう。そういえば、積木君がパワポを資料で欲しいっていっていたっけ。どうせなら毎回、配布しようかな。晴翔君に相談して、準備してみよう) 去年は考えなかった工夫をする気になる。 ワクワクと考えていたら、あっという間に昼になった。 鞄の中の弁当を探す。 いつも弁当箱を入れている小さめの保冷バックが見当たらない。「お弁当、忘れてきちゃった……」 鞄に入れたような記憶があるが、気のせいだろうか。 朝は眠いから、自分の行動に自信がない。 どんなに探しても見つからないので仕方がなく、学食に行くことにした。 白衣を脱ぐと、財布を持って、外に出た。 研究室のドアに鍵を差し込む。うまく回らない。 慶愛大学は歴史のある学校だが、その分、建物も古い。 数年前の建直しで学生棟は最新の建物らしいが、理玖の研究室がある第一研究棟は大学の中で最も古い建物だ。「趣があって良いかもしれないけど、鍵が昭和のまま時を止めてる感じは、いただけないな」 思いっきり蹴り飛ばしたら開いてしまいそうな鍵とドアだ。 ガチャガチャと抜き差しを繰り返す。ドアを手前に引きながら締めたら、何とか締まった。「折笠先生の研究室がある第二研究棟は綺麗だしスマートキーなのに。この建物だけタイムスリップしたみたいに古い」 しょんぼりしながら愚痴をこぼした。 第一研究棟は規模も小さく、稼働数も少ない。二階は理玖の研究室しか、使用者がいない。五階建ての建物は、三階以上が七割埋まっている。一階は部屋数が少ないからか、誰も入っていない状況だ。 八階建ての第二研究棟と第三研究棟は満室で、入れなかった講師が第一研究棟を使用しているらしい。今時、講師が個室を貰える時点で有難い待遇だが。(室内はリノベーションしてくれているし、そこそこ広いし、待遇も准教授並みだから、古い程度で文句も言え